曼殊沙華
艶やかなヒガンバナが、あぜ道を彩る季節になりました。
アルカロイドという毒を持つからか、死人花、地獄花、幽霊花、捨子花…といった異名が多く、「摘んだら火事になる」とも言われ、近づきがたい花のひとつでした。
しかし、「ヒガンバナは無意味に咲く」と知り、その印象は一変しました。ヒガンバナの繁殖は、もっぱら地下茎により行われます。受粉のために花を咲かせる必要も、その蜜でチョウを誘う必要もありません。なのに、情熱的に花を咲かせ、甘い蜜を惜しげもなく分け与えるのです。
「われわれはそれをとかく無駄であるとか、浪費であるとかいうように解しがちであるけれども……もしそんな我利我利亡者ばかりの寄り集まりだったら、このような美しい自然は、とうてい形成されなかったであろう」と、生態学者の今西錦司は述べています(平凡社「生物レベルでの思考」)。
私たちが、我利我利の損得勘定で物事を考えてしまうことは、この資本主義社会に生きる以上、仕方がないことかもしれません。けれども、ただ花を咲かせ、ただ蜜を与えるヒガンバナの余裕には、憧れすら覚えます。
美しいものが美しいのは、何の役にも立とうとしていなから―。何かのためを求めた瞬間、違和感のベールで覆い、美から遠ざける「書」は、そのことを教えてくれているように思います。
私たちは、燃えるように赤いヒガンバナのように、「いのち」のエネルギーを、目いっぱい輝かせているでしょうか。アタマだけで考えた無駄、無意味で、「いのち」を窮屈にしてはいないでしょうか。
「書は散なり」―。書は心の開放だと述べた空海の心境を、いま一度、噛み締めてみたいものです。
武田双鳳
0コメント