書道家・武田双鳳

書法家・アーティスト
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書法道場師範/第30回龍谷奨励賞受賞/PanasonicCM出演//PUMAやMiele、月桂冠、ゴードンブラザーズ、読売テレビなど有名企業で書道実演/龍谷大学「心の講座」やヒモトレfestivalなど書を通じて人生を豊かにする講演活動/ロゴ作品揮毫/ふたば書道会理事/行政書士試験合格12回/社会保険労務士有資格者/予備校・大学などで法律講師歴15年/ヒモトレ研究

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書の美しさの起点は「腰の入った線」です。そこから生まれる深度・速度・角度の筆蝕三重奏が、豊かな書表現を生み出していきます。だからこそ、書法道場の稽古では、飛んだり跳ねたり、時には、ひっくり返ったりしながら、「腰の入った」カラダの心地よさを味わう時間を設けています。とはいえ、筋トレのように身体に負荷をかけることはしません。書は負荷を外し、身体を軽やかにしていく所作です。重さを重さとして受け取る筋トレと、重さを軽やかな動きに変える書とでは、その方向性は相容れないでしょう。「腰の入った線」という身体性(肉筆性)を書において顕著にしたのは書聖・王義之(307~365年頃)です。代表作「蘭亭序」では、篆・隷書体ではできなかった人間の生き様の表現を、二折法(自然筆法)という身体性によって可能にしたのです。リズミカルな運筆で書に「韻」(ひびき)を与え、三折法という「法」(ことわり)の完成へと誘った王義之の書きぶり。それを私たち現代人にフィードバックすれば、きっと、古代人の身体性(流麗な動き)が、今の身体に引き出されていくのでしょう。書は、言葉に生命を与える営みです。生命は身体に宿ります。書を実現するには、自分の身体という最も身近な大自然の聲を聴く機会が、どうしても必要なのです。王義之は、いったい、どのような身体の聲を聴いていたのでしょうか。≪「言葉」-「書」-「身体」≫を通じて生に「命」を与えていく営みを、みんなで存分に楽しんでいきましょう。書法道場師範 武田双鳳

あな番、タピる、サブスク…みなさん、ご存知ですか?今年の「流行語大賞」の候補をみると、自分が、いかに流行に乗り遅れているか、知らしめさせられます。リサ、ヒゲダン、キングヌー…NHK紅白歌合戦も、ますます知らない歌手が増えていきます。いまの僕らは、インターネットで情報が瞬時に公開され、新しいものが次から次へと生み出されます。日々の興味に尽きることのない、とても恵まれた時代に生きています。しかし、周りの大人を見渡せば、どうでしょう。いつもワクワクしている人よりも、なんとなく虚しそうにしている人の方が多いようにも感じます。情報も食料も、これだけ恵まれているのに、なぜ、満たされないのでしょう。それは、絶えず何かを外に求めているからではないか。流行りに興味を移り変わらされ、心が分散しているからではないか。じっくり取り組むことができず、軸足が定まらないからではないか。皆さんが稽古に励む書道には、厳しい面もあります。心が散っていては、たった一本の線すら、まともに書けません。軸足が定まらないと、墨すら磨れません。ただ、書道には厳しさがあるからこそ、心の集中を生み、軸足を安定させ、虚しさの渦から引き戻してくれるのです。いまが先の見えない不確定で不安定な時代だとしても、何かに腰を据えて取り組んでみる。情報に流されず、ひとつに魂を燃焼させてみる。そうやって、自分の「生」の素晴らしさを発見し続けていく。そんな豊かな人生を歩むツールとして書道を活かしていただければ、幸甚の極みです。書法道場師範 武田双鳳

曼殊沙華

艶やかなヒガンバナが、あぜ道を彩る季節になりました。アルカロイドという毒を持つからか、死人花、地獄花、幽霊花、捨子花…といった異名が多く、「摘んだら火事になる」とも言われ、近づきがたい花のひとつでした。しかし、「ヒガンバナは無意味に咲く」と知り、その印象は一変しました。ヒガンバナの繁殖は、もっぱら地下茎により行われます。受粉のために花を咲かせる必要も、その蜜でチョウを誘う必要もありません。なのに、情熱的に花を咲かせ、甘い蜜を惜しげもなく分け与えるのです。「われわれはそれをとかく無駄であるとか、浪費であるとかいうように解しがちであるけれども……もしそんな我利我利亡者ばかりの寄り集まりだったら、このような美しい自然は、とうてい形成されなかったであろう」と、生態学者の今西錦司は述べています(平凡社「生物レベルでの思考」)。私たちが、我利我利の損得勘定で物事を考えてしまうことは、この資本主義社会に生きる以上、仕方がないことかもしれません。けれども、ただ花を咲かせ、ただ蜜を与えるヒガンバナの余裕には、憧れすら覚えます。美しいものが美しいのは、何の役にも立とうとしていなから―。何かのためを求めた瞬間、違和感のベールで覆い、美から遠ざける「書」は、そのことを教えてくれているように思います。私たちは、燃えるように赤いヒガンバナのように、「いのち」のエネルギーを、目いっぱい輝かせているでしょうか。アタマだけで考えた無駄、無意味で、「いのち」を窮屈にしてはいないでしょうか。「書は散なり」―。書は心の開放だと述べた空海の心境を、いま一度、噛み締めてみたいものです。武田双鳳

不器用

ハサミで真っ直ぐ切れやしないし、お箸もまともに持てやしない。裁縫なんてもってのほか。「あんたは不器用だから」と親にも諦められる。器用な人はスグにできるのに、何度やっても上手くいかない。歯がゆい。悔しい。悲しい。比べられたくないのに比べられ、自分だけができもしない。 でも、スグにできないからこそ、いったん立ち止まれる。器用な人が、一段飛ばしにするプロセスでつまづくからこそ、深く掘り下げることができる。最後の宮大工棟梁・西岡常一氏は言う。「はじめ器用な人はどんどん前へ進んでいくんですが、本当のものをつかまないうちに進んでしまうこともあるわけです。だけれども不器用な人は、とことんやらないと得心ができない。こんな人が大器晩成です」と(「木に学べ 法隆寺・薬師寺の美」より)。では、不器用さに挫けないためには、どうすればいいんだろう。大切なのは、「開く」ことじゃないか。できないからこそ、人前でやってみる。できないからこそ、誰かに教えてみる。確かに、失敗してしまうのは恥かしい。思い通りにいかないのは、むず痒い。しかし、不器用だからと殻に閉じこもってしまっていると、いつまでも才能は開花しないのではないだろうか。器用なことは素晴しい。でも、同じくらい、不器用なことも素晴しい。不器用は、決して、マイナスばかりではない。勇気をもって、「開く」を続けていけば、不器用が天賦の才であることを、肚の底が実感するはずなんだ。                                        書法道場師範 武田双鳳

坐るという運動

書の世界では、以下の3つが大切だと言われます。①結構法(字形のとり方)②筆法(筆の使い方)③章法(字の配り方)そのため、一般的な書道のお稽古では、基本線や臨書などを通じて、①~③の反復練習を行います。ところが、今の私たちが、書道の練習を①~③に限ってしまうと、 「みせかけ」にしかならない恐れが多分にあります。①~③を導き出し、書を文化として高めていった古人の身体には、おそらくですが、「足腰がある」という前提がありました。今の私たちの身体は、どうでしょう。昔の女性のように、米俵5俵(300キロ)をかつげる足腰はあるでしょうか。もちろん、ボタン一つで荷物が届く私たちが、薪割りなどをしていた古人の身体に戻ることはできません。しかし、身体感覚と表現手法は表裏一体。身体感覚を無視して、手っ取り早く①~③だけを 上達させようとする稽古は、果たして、「ほんもの」の書を生み出すことができるのでしょうか。当道場の稽古で身体感覚を味わう時間を大切にするのは、「ほんもの」に触れ合いたいから。その触れ合いの中にこそ、「豊かさのタネ」があるように思えて仕方がないからなのです。「書く」の前に「坐るという運動」を。 今月も、自分の身体のあり方を感じる稽古から始めます。

美しい調和 ~beautiful harmony 令和

「令和」の稽古が始まります。これから長く付き合う新元号。ぜひ、心地よく書けるようになりたいものです。ただ、急がば回れ。「令」「和」という文字(字源など)について、少し学んでみましょう。(白川静説をベースに)「令」は、神のお告げを受けた人の象形で「いいつけ」の意味。「命」と同じ意味で用いられ、神のおつげに従うことから「よい、りっぱ」という意味に。「命」は「生」と区別され、「生」は自然に与えられるもので、「命」は神のお告げ(天命)の自覚により与えられるものと解されます。「論語」に「命を知らざれば、以て君子たること無きなり」とあります。自分の天命が不明のままでは、心落ち着かず目先の利益に動かされてしまうという教えです。今月は、「願い叶え短冊」を開催。命(自分が本当にやりたいこと)が、明らになるチャンスにしたい思います「和」は、「禾」(軍門にかける標識)+「口」(祝詞を入れる器)から、戦争をやめ平和に戻すこととされ、「やわらぐ、なごむ」の意味になります。なお、甲骨文字には「和」はなく、異字体として「龢」の字がありました。笛の象徴である「籥」(ヤク)と「禾」を合わせて、楽音が調和するという意味です。日本政府は、新元号の「和」を「harmony」と訳しましたから、「和」(peace)ではなく、異字体の「龢」の方に寄せたのでしょうか。NHKの世論調査で約8割が「平成は平和な時代」と答えたそうですが、世界に目を向ければ「平成も戦争の時代」でした。人種や信条、思想の違いが争いのタネではなく、「beautiful harmony」となって、世界中の人の心を照らしますように。祈ることしかできませんが、祈ることはできます。ただただ祈りを込めて、書いてみるとします。書法道場師範 武田双鳳

平常心

アジア勢初の世界ランキング1位。大坂なおみ選手、本当に素晴しい活躍です。全豪オープン決勝では、マッチポイントを獲ってから歯車が狂い、観客の声援には耳をふさぎ、ラケットをたたきつけて激高。勝てるチャンスを逃してしまいます。ところが、トイレ休憩後は、まるで別人に。落ち着いた表情で淡々とポイントを重ね、ついに優勝を手にします。いったい、トイレで何があったのでしょう。大坂選手が口にしたのは「インナーピース」。「それに達すると何にも気にならなくなり集中できる」と言います。人間は、1日6万回思考し、そのうち80%がネガティブなものだと言われます。思考は言葉であり、内なる声。なんと1日4万5千回も、自分に対して「イヤだ」「ムリだ」といった声がけをしているというのです。もちろん、ネガティブ思考は生きるためには必要です。「こわい」と思えるから、危険を回避できます。しかし、内なるネガティブの声が大きくなりすぎると、カラダのバランスも崩れ、本来の能力が発揮できなくなったりします。あの極限状態で大坂選手が示した「インナーピース」。どれだけ、苛立ちの嵐が渦巻いているとしても、台風の目のように存在する安らぎの声に耳を澄ます。澄んだ耳であるために、姿勢を整え、呼吸を深め、内なる声を書で表現する。それぞれの「インナーピース」を引き出しあう稽古、この道場で続けていきたいと思います。